こんな「京都わかもん会議」は嫌だ

ぼくは1988年に生まれました。平成前の、ギリ昭和。で、いつも思っているのが、ぼくらの世代は、動くことよりも考えることをより好む傾向があるんじゃないか、ということ。よく言えば、熟考型の慎重派。わるく言えば、ビビりの頭でっかち。誰かのやった経験や言葉を借り、さも自分が経験したかのように語り、他人のふんどしで相撲をとるような、そんな世代だろうなと。まさに自分がそうなんですよね。それがいつもこわい。

そして、その世代論は、おそらくぼくらの下の世代まで引きずられているとも感じます。「こういうことやろうと思うんですよ」と最初に勢いよく口にする人は多いのだけど、次には下降気味に「でも…」とやれない理由ばかりをあげて、結局やらない。何かをすでにやっている人を見つけると「あの人は特別だから」と摩訶不思議な選民思想に走り、自分が動き始めるために必要な条件(それを、やれる理由)を考えることをあまりしない印象を受けます。

「そういうのは、もう止めませんか。おそらく、そのままいったら、そのままですよ」と思うんです。それは冒頭にも言ったように、自分自身がこわいぼくは、自分に対していつも投げかけている言葉であって、某台詞のように、考えるよりも(感じるがままに)動きだすことを意識するようにしてます。そして、その初動にも気を付けていて、すぐには止まれないような、ブレーキのないチャリンコで下り坂をすべり出すような道を選ぶようにと心がけています。

 

息を切らさず、もう一つ思うことを書きます。

「やりたいこと探してます」と嘆いている人は、今やっていることがないだけじゃないですか。それが、やりたいことなのかわからなくても、ご縁であってもなくても、とにかく目の前にやってきたものを選り好みしすぎずに取り組んでる人は「やりたいことが〜」なんて嘆く暇すらなくて、自分のできることを徐々に徐々に広げて、本能的に心の底からやりたいこと(あるいは、やりたくないこと)をみつけ、自分のあるべき方向へと進んでいってる人。

やりたいことは、結局、自分が動き回ってきた経験の中からしか見つからない。他人の言葉を咀嚼しただけでは、なんとなくわかったつもりにしかならないし、頭のなかだけで生まれる「〇〇やりたい」は、たいていが「やりたいと思い込んでること」である可能性は高い。こういうのは、たいていが「なんで?」を繰り返されて、質問攻めにあったら泣き出しそうになるケースです。

「やりたいかもしれないこと」をやってみて、自分自身の感覚でその肌触りを確かめながら、あれでもないこれでもない、とフィットするものを探していく。本来は、そんな感じではないでしょうか。そして、「〇〇やりたいんです」と叫ぶよりも、「(それが本当にやりたいことかはわからないですけど)〇〇やっています」と口にできるほうが、集まってくる情報の質は違うし、力になってくれる人の数もきっと変わますよね。

 

何が言いてえんだよてめえ! と思ったかた、すみません、ちゃんと手短に言います。「耳と口だけ動かしていても何も変わらない。それよりも先に、手と足を動かすほうが大切で、それがあってこその耳と口」。誰かの話を聞くだけ、頭だけのバーチャルを話すでなく、自分が動いてみて、感じたことを糧にして、誰かに話し、誰から聞いて、もっとより方法をみつけにまた動きはじめる。

「おめえらと違っておれは動いてるよ」的なことを偉そうに言いたいわけではないです(そのような書き方に多分になっているはずで、これは謝ります)。ではなく、すでに動いている(-ingの状態)ものが自分にあるほうが、きっとよき出会いを引き寄せられる、もっともっと動きを広げていける。それです。ぼくはそう思うんです。そういった自分のコミュニケーションツールになりうる活動があれば、他人からの跳ねっ返りをもらいやすいのはおそらく事実でしょうし。

 

そういったことを踏まえたうえで、「京都わかもん会議」のような場に参加できるといいと思うんですよね。正直な話、なんで「クスブリスト」という言葉をひとつのテーマに置いてるのかわかりません。そこに懸ける想いと言葉がそもそも持つネガティブな印象が、若干かけ離れている気がするので。

京都わかもん会議は、語り合う場というより、ひとつのメディアだと捉えています。そこで自分が「これやってるよ」「この指とまれ」の話ができたら、巻き込めるもの、広がるもの、つながる人が増えやすくなるからです。それは想いを拡散させるメディアの機能にかぎりなく近い。その場は「ブレーキのないチャリンコで下り坂をすべり出すような道」になりえます。

去年参加してみて、そこでのご縁があったからこそ、たからさがし。の2人が沖縄にきたり、ぼくが熊本へ行ったり、スピンオフイベントに参加させてもらったり、沖縄でイベント行えたり、できたのだと思いますもん。おそらく、去年参加したときに、ぼくが何もやっていない人だったら、こういう流れにもならなかったでしょう。

 

100人が集まる場であり、メディアであり、もちろん1人1人が情報発信者であるなか、自分の想いを伝え、やっていることを共有し合えると、なにか新しい動きが生まれるはずです。はじまること、それを続けることは大切です。ただ必ずしも無理には続けなくてもいいと思います。それもひとつの実験にしちゃって、続いたらラッキーくらいの気持ちで、次の新たな動きにつなげていければ。自分で言うのもなんですが、去年のわかもん会議でつくった「今日と、」は失速しちゃってますからね笑 アーカイブが残ってるの少しましなくらいでダメダメでした。そこでの反省を新たなメディア「焦点街」に活かせればと奮起中でございます(ちょっとだけ告知)。

shoten-gai

再三しつこく記しますけど、なにかをやっている人の存在に憧れて、参加するのはおすすめできません。だって、やりたい人の多くは、やっている人の話を聞きたがりますけど、やっている人の多くは、やっている人の話が聞きたいものですよ。とはいえ、実際にやっていることがなくて、一歩を踏み出したいなら、「わあすごいなぁ」と相手に感じるだけなく、そういった相手にも同じように思ってもらえるくらいの動きをつくる、という気持ちだけは用意できるといいんじゃないかと思っています。そういえば、去年わかもん会議に参加していたひとりは、今焼き芋を売っているみたいです。

 

ここまでに、かなり卑屈なことばかり書いてますが、基本、わかもん会議の場は好きなんですよ。だって、その場をつくろうとする人が好きなんですもん。だからこそ、余計になーなーになって欲しくないというか、他の「〇〇若者会議」とは違った明確な色が見えたらいいなぁ、とひっそり感じています。だから、鉄拳ばりに「こんな京都わかもん会議は嫌だ」というのはあるんです。どっちかというと、「こんな京都わかもん会議の参加者は嫌だ」の話ばかりし、かつ誠に勝手ながらで、超おそれ多いですけど…。

ということで、「おめえうっさいけど、ぼく・わたしは参加するからね、興味むっちゃあるんだから!」ってかたは、ぜひ「京都わかもん会議」に顔を出してみてください。ここがはじまりでも終わりでもなく、ひとつの通過地点になりますように。詳細はこちらから。

wakamon

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1件のコメント

  1. さすがみじゃ氏
    わかってらっしゃる。

    限りなくメディアですね。
    熱くてもいいし、そうじゃなくてもいい。

    今回応募の段階で、語り合いたいキーワードを3つ聞いています。

    これはひとりひとりが何かを持った状態で
    この場にきてほしいということ。

    ただ単にふわっときても、なにも起こりませんし。話聞いてもすげーっで終わっちゃうし。

    そしてゲストをお呼びしないというのも今年の特徴。(まもなく基調講演などリリースしますが。)

    24時間そこらで何か生まれるかもしれないし、そうでないかもしれない。でもきっと仲間は見つかるはず。

    そんなこんな含めて
    今年のテーマ クスブリストには色んな意味が込められているのです。

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